(写真:シャルルヴィルのランボオの家にて)
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全体的な構造はたてているものの、
撮影の上がったフィルムを前に、撮る前との差異がつきまとう。
思うこと、考え方も変わっていく。
実践にともなう苦悩がいつも作品の種子となる。
この映画は、プライベートな域を越えない、
その視点が重要だと思っている。
世の大半のベクトルは反対側にある。
マイナスのように思われ、
削られ、消されていく箇所を見詰めることを課した映画は、
この世では駄作として無視されることになるだろう。
少なくとも見離されていくだろう。
もし、この映画が、最后のロマンチシズムなら
「私」は本望だと思っている。
この場に及んで、やっとそこに、
恥ずかしいほどの、
純潔センチメンタリズムの、
「映画」フィルムの束を贈れる思いになった。
もしかしたら、
プライベートフィルムを撮り続けた、
1985年から2017年までのなかで、
つくづく駄目だ、駄目だと
つまずき、ぶちあたり、転げ廻って得た
箸にも棒にもかからない
「私」の映画の顛末なのかも知れない。
★(続)