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山田勇男

ヤマヴィカ映画史22


(写真:シャルルヴィルのランボオの家にて)

全体的な構造はたてているものの、

撮影の上がったフィルムを前に、撮る前との差異がつきまとう。

思うこと、考え方も変わっていく。

実践にともなう苦悩がいつも作品の種子となる。

この映画は、プライベートな域を越えない、

その視点が重要だと思っている。

世の大半のベクトルは反対側にある。

マイナスのように思われ、

削られ、消されていく箇所を見詰めることを課した映画は、

この世では駄作として無視されることになるだろう。

少なくとも見離されていくだろう。

もし、この映画が、最后のロマンチシズムなら

「私」は本望だと思っている。

この場に及んで、やっとそこに、

恥ずかしいほどの、

純潔センチメンタリズムの、

「映画」フィルムの束を贈れる思いになった。

もしかしたら、

プライベートフィルムを撮り続けた、

1985年から2017年までのなかで、

つくづく駄目だ、駄目だと

つまずき、ぶちあたり、転げ廻って得た

箸にも棒にもかからない

「私」の映画の顛末なのかも知れない。

★(続)


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