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山田勇男

ヤマヴィカ映画史19


(写真:ラ・カメラ上映会ちらし『La あんよ』(1994年10月))

1992年11月。

さて、『アンモナイトのささやきを聞いた』(1992)のポストプロダクションで、

東京に住み、仕上げて間もないころだった。

島本慶が友人と作った乃木坂の「ラ・カメラ」で自主上映をすることになった。

北海道大学を卒業して東京に戻って映画を撮っていた山崎幹夫、

彼と親交のあった斎藤禎久、

高校のとき友人と作った8ミリ映画をわざわざ札幌の「銀河画報社」まで送ってくれて、

「私」と湊谷さんとで感想を返信して以来、親交を持っていた大宅加寿子、

ライターの島本さんとで始めることになった。

第一回目は、山崎くんが全プログラムを組み、

映写まわり(映写機、スクリーン、当日の映写)を担当し、

その年の秋に、上映会を行った。

その後、16ミリ映画を自主制作する運びとなった。

「私」が夜、島本さん宅を訪ねて行ったとき、

東京に住んで間もない「私」は、

三軒茶屋の路地に迷いに迷い辿り着くといったエピソードがあった。

寺山さんが生前、「路地」に興味を持ってリサーチしていたことを本で読んでいたこともあり、路地の映画を撮りたいと思った。

大宅さんと「私」が原案をつくり、山崎くんが撮影、斎藤くんが助手をし、

4人で東京の至る所の路地を暮れから正月にかけて撮影をした。

時々、田村拓や松本崇久も参加した。

そして、仕事を終えた辺りに、島本さんと合流し、

あちこちの居酒屋でたんまり飲んで疲れを癒した。

その頃、島本さんは毎週競馬に当り、そのおこぼれのなせる恵であった。

タイトルは『薄墨の都』とし、

1993年の5月にラ・カメラで初上映した。

それから、毎月4日間の自主上映を1999年9月まで続けた。

その後、「ラ・カメラ」が下北沢に移り、

およそ年2回の上映会になり、今日まで続いている。

プログラムは山崎くんとラ・カメラの大宅さんと「私」とで決めている。

山崎くんは、以前、「ぴあ」や「イメージ・フォーラム」で映写技師をしたり、

作家としても「ぴあ」に2度も入選し、

「イメージ・フォーラム・フェスティバル」に招待されたりしていた。

ほかにも、彼自身の制作やワークショップ、自主上映など多岐にわたる活動が、

多くの出会いと交流に繫がっていったのだと思う。

プログラム作りには、そういった彼の背景が心強かった。

大宅さんが事務、斉藤くんが受付、「私」がチラシ作りという役目だった。

今では斎藤くんの代わりに、受付も「私」になった。

★(続)


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