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ヤマヴィカ映画史11


(写真:『草迷宮』(1979)スチル)

札幌ススキノのはずれ、中島公園近くに「Jabb 70 hall」という、

映画館に勤めていた3人の仲間が自分たちで作り上げたミニシアターがあった。

そこのプログラムが気に入っていて、時々観に行っていた。

特に、ユーロスペース配給の作品がそれまでにない刺激的なものだった。

その頃、「私」は湊谷さんが亡くなったこともあって、鬱々とした日々を過ごしていた。

そんな折、配給会社であるユーロスペースが初めて映画を製作するので、

撮らないか、との打診をいただいた。

正直、寝耳に水、あのユーロスペースで私が!?と、想いもよらぬことでびっくりした。

ちょうど、浜松で「ブルーセルロイドステーション」と名付けた自主上映の帰り、

東京に寄った。

せっかくユーロスペースが作るんだから、変な映画を撮るひとを紹介して欲しい、

と相談を持ちかけられた雑誌『イメージフォーラム』の当時の編集長だった西嶋憲生が、

「私」を推してくれてのことだった。

さて、「私」は劇場映画を撮りたいと思って小さな映画を撮っていた訳でもなく、

ずうっと一緒にやっていた湊谷さんもいない。

現場といっても寺山修司の現場しか知らない。

寺山修司の映画製作といえば、『草迷宮』(1979)で助監督だった相米慎二が、

現場のアマチュアリズムにはびっくりした、と後年どこかで語っていた。

確かに主要スタッフは凄い人達だったけれど、

そこに「天井桟敷」のメンバーが交って右往左往立ち回っていた。

当然、美術の「私」も然り、ひたすら撮影時に間に合うように手配したり、

かたち作るのが手一杯で、ほとんど現場には足を運べなかった。

とりあえず、赤だ、赤だと、「鈴木さん、美術のコンセプトは赤です」と伝えるばかり。

彼の優しさ(?)で、なるべく赤を目立つように入れてくれてはいた。

寺山さんの作品には、何となく赤色のイメージがつきまとっていた気がしていたからだが、

当時、何ら理屈っぽい説明はできなかった。

イメージと言っても、表現するには、常に具体的な表示しかない。

ほんとうに適切というものがあるかどうか。

確かに、ピタッと決まった、さすがとしかいいようがないことがある。

いい意味で期待を裏切った凄さを見ると、やっぱり参った、となる。

その反対となると、恥ずかしくて、見るに聞くに耐えない。

難しい。

きっとこうなるだろうと思っても、結局、思った当人の思いでしかない。

度々そんなことに立合うことがある。

意思疎通とは、思い込みの強さでしかないか。

幻想のなせる業かも知れない。

さて、『草迷宮』の原作は、ご存知泉鏡花の『草迷宮』である。

いつしか作業部屋で独りぼおーッとしていたら、

寺山さんには私が悩んでいるように見えたらしく、

「山田、泉鏡花だからね。泉は水、そして鏡、花だよ」と言った。

単純なことだけれど、そこがポイントだった。

そこで、単純な見方、発想の説得力を学んだ私は、

無知の赤い涙を流したわけだ。

そこで、ユーロスペースからの打診に、

これまでのスタッフでいいのなら引き受けたいと話をした。

あれこれ話をしていくうちに、音楽だけは向うの意向を聞いてほしいといわれ、

「誰か?」と問われ、「だったらニノ・ロータがいい」と答えた。

彼はもう此の世にいないし、悪い冗談のように受け取られたかもしれないけれど、

それまでの延長上でしかずうっと考えられず、そういうことなら、好きなフェリーニの

映画音楽をずうっと担当していたニノ・ロータしか浮かばなかったことは本当だった。

その後、大好きなディレク・ジャーマンの音楽をしていたサイモン・ターナーになったが、

ユーロスペースの堀越謙三がロンドンまで彼に会いにいって決めてきた。

こうして生まれたのが、『アンモナイトのささやきを聞いた』である。

★(続)


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