(写真:『青き零年』(1985)より)
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1984年、秋。
宮澤賢治の『ガドルフの百合』のガドルフが、
『注文の多い料理店』にまぎれこんだ話を、
紙芝居屋の「私」が映画の観客に見せる『悲しいガドルフ』(16ミリ)を撮影している年だった。湊谷さんに8ミリカメラを借りて、およそ一年間フィルムスケッチをしたことがある。
それまでの撮影方法は、演出を汲み取ったカメラマンがフレームを決め、
湊谷さんと「私」が、チェック、もしくは意図を確認して、
更にカメラマンが意見を参考に調整、修正して撮るのが常だった。
「私」の眼はカメラの眼なのか。
一体「私」自身は何をどのように見ているのか、見ようとしているものを確かめたくなったのだ。<ヤマヴィカフィルム>として初めて撮影・編集した映画が『青き零年』だった。
それからずっと、「普遍に対する個人の非合理の世界を強調した」プライベートフィルムを
今日まで廻している。
これが、「映画」と出会ってからの、「私」の46年ということか。
結局、稲垣足穂に同感した「白いスクリーンの精神」が今、
アルチュール・ランボオとの邂逅で、より確かさを得たように思っている。
★(続)