(写真:ヤマヴィカ・アトリエ 見捨てられコレクション)
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「ランボオ素描」を読んでいくうちに、「錯乱によって未知に到達すること」が問題になった。
十八歳のときに観た『書を捨てよ 町へ出よう』のなかで
「僕たちは僕たちの向かう方法のなかでしか生きられない」
というE.M.シオランの言葉を引用していたが、
いくたびも苦境に立たされたとき、呪文のようにつぶやいていた気がする。
およそ世間を相手にできるほど表現が達者ではない。
だから、自分の方法でしか生きられない宿命と向き合う苦悩だけが残されていた。
寺山修司は言う。
作品は作る側半分、見る側半分で成り立っている、と。
だが、もう、「私」に観客を想定することなど無意味になってきた。
たとえば豆腐屋のラッパのように、すっかり忘れ去られ消えたものが沢山ある。
「私」がこの世に生きてきた身の廻りを見渡せば、
「無邪気で馬鹿馬鹿しいものたち」にどれだけ愛おしく寄り添ってきたことか。
誰も相手にしなくなったそれこれの、心を動かした「私」のフェヴァリット。
今も変わらず、映画の終わりに残された暗闇に浮かび上がった白いスクリーンの震えを眺めている境地だ。
人類の進歩によって見捨てられていくもの ー
消えて無くなっていくものたちを静かに(優しく)、見守りながら。
さて、この虚無はどこからくるのか。
★(続)