『ヤマヴィカ映画史14』

(写真:『ソノ空虚ノ瞬間ニ』(8mm, 2014)より長沼の風景) ★ 幼年期、祖母に連れられて生まれて初めて見た映画、を思い浮かべてみる。 当時、まだ「私」の小さな町にも、長沼劇場という映画館がひとつだけあった。 夜のふくらみでできたような、暗闇の大きな箱のなかに、 別世界が画面いっぱいに映写されている。 影のような三角山に、長い銃を持った兵隊たちが、 次々と旗を立てては倒れていく場面を覚えている。 今でも思い出すと、何とも悲しい。 頂上に旗を立てたと思ったら、射たれて倒れ、 次の兵士がまた立てて倒れ、が何度も繰り返された。 その光景は、子供心に、積んでは倒れる積木に似て、なんともやるせない。 わけもなく切なくて、悲しいこと。 世界を知るということは、決して大人になってではない。 何も解らない幼年期の頃に出会った現象が、 はっきりとそれを教えてくれた。 ★(続)

ヤマヴィカ映画史13

(写真:リヨン 夜のローヌ川(2015年12月)) ★ 三度目の正直という云い草がある。 前近代的だといわれながらも、相変わらず8ミリフィルムで撮っている。 青いセンチメンタリズムかも知れぬ。 フィルムの死が先か、「私」の死が先か、という状況にある。 ここ、ドイツにおいてもフィルムの現像所はベルリンに一カ所あるだけ。 しかし、昨年の秋にはカラー現像がなくなり、紹介されたオランダでは、 現像から発送までたったひとりの現像所である。 フィルム代も莫迦値だ。 もう終わりだと諦めながらも、とりあえずの情熱はどこか。 そこには「あきらめの意地」があるだけか。 嗚呼、戀しひフィルム!!! さて、そんな今、何を撮るべきかと巡らしているうちに、 映画を辿る旅から、「私」の映画史を辿ってもいいのではないかと思った。 先ずは、リュミエール兄弟の映画の聖地でもあるリヨンの町をたずねた。 ところが、廻したフィルムは音だけで、フィルムが廻っていないことに気がづいた。 廻り続けているものだから、えッ?まだ?、と フタをあけてチェックしても撮り終った表示がない。 フィルムに印を付けて廻したら、なんと廻っていない。 クラッ、ときて、近くのベンチに座り込んだまま、しばらく立ち上がれなかった。 出端がくじかれる思いとはこのことか。 つくづく、「精神」が試されているな、と半泣き、諦め、 苦渋の影がローヌ川沿いのベンチに落ちた。 ★(続)

ヤマヴィカ映画史12

(写真:『アンモナイトのささやきを聞いた』(1992)スチル) ★ 1989年12月31日で、今はもう無い「タケヤ工芸」という看板屋を辞め、 1990年1月1日から映画台本を書き始めた。 古本屋に勤めていた岡倉秀明の夢がもとになっている。 彼には妹なんかいないのに、森のなかの巨大なアンモナイトの薄明かりのなかで眠っている。 彼は、夢を見るたびにその眠っている妹を訪ねていくという話だった。 『アウローラの焔』というタイトルで書き進めたのだが、 悩んだり迷ったりすると頑固になるか、他者の影響を受けすぎるかで、 まわりといろいろ話しをしていくうちに、どんどん内容が変わっていった。 「それじゃ解らない、解らないことをちゃんと解らないと伝えることが大事だ」 と、ユーロスペースの堀越さんは云った。 堀越さんは、余計なことは何ひとついわず、「山田さん、大人の遊びをしましょう」と、 たった五ツ離れただけなのに、四十五歳の彼の凄みをまじまじと思い知らされた。 互いに初めての制作現場ではあるが、つくづく「私」のちからの無さを思い知らされた。 何度もその最悪の、これはもう誰も救えないという状況に直面しながら、 何とか乗り切れたのは、奇蹟としかいいようがない。 思い出すだけでもゾッとする。 堀越さんがポストプロダクションで素晴らしい方々を揃えてくれたことは、 改めて彼のイニシアティブのちからとしか言いようがない。 今、思い返しても頭が下がる。 恥ずかしい話だが、「助けられた」と痛感している。 札幌でのスタッフは映画のアマチュア集団だったけれども、 ほとんどの人が何度かの中断にも耐え、さいごのさいごのさ

ヤマヴィカ映画史11

(写真:『草迷宮』(1979)スチル) ★ 札幌ススキノのはずれ、中島公園近くに「Jabb 70 hall」という、 映画館に勤めていた3人の仲間が自分たちで作り上げたミニシアターがあった。 そこのプログラムが気に入っていて、時々観に行っていた。 特に、ユーロスペース配給の作品がそれまでにない刺激的なものだった。 その頃、「私」は湊谷さんが亡くなったこともあって、鬱々とした日々を過ごしていた。 そんな折、配給会社であるユーロスペースが初めて映画を製作するので、 撮らないか、との打診をいただいた。 正直、寝耳に水、あのユーロスペースで私が!?と、想いもよらぬことでびっくりした。 ちょうど、浜松で「ブルーセルロイドステーション」と名付けた自主上映の帰り、 東京に寄った。 せっかくユーロスペースが作るんだから、変な映画を撮るひとを紹介して欲しい、 と相談を持ちかけられた雑誌『イメージフォーラム』の当時の編集長だった西嶋憲生が、 「私」を推してくれてのことだった。 さて、「私」は劇場映画を撮りたいと思って小さな映画を撮っていた訳でもなく、 ずうっと一緒にやっていた湊谷さんもいない。 現場といっても寺山修司の現場しか知らない。 寺山修司の映画製作といえば、『草迷宮』(1979)で助監督だった相米慎二が、 現場のアマチュアリズムにはびっくりした、と後年どこかで語っていた。 確かに主要スタッフは凄い人達だったけれど、 そこに「天井桟敷」のメンバーが交って右往左往立ち回っていた。 当然、美術の「私」も然り、ひたすら撮影時に間に合うように手配したり、 かたち作るのが手一杯で、ほとんど現場には足を

ヤマヴィカ映画史10

(写真:「「私」とは、もうひとりの他人である」と書かれたカードを持つ筆者近影) ★ ボルヘスの本のなかに「胡蝶の夢」というのがあって、 「私」が蝶になった夢をみたのか、蝶が「私」になった夢をみたのか、 わからなくなってしまった話をヒントに『海の床屋』(1980)という8ミリ映画を アパートの隣にあった床屋さんを使わせてもらって撮ったが、 そのタイトルのあとに、 「私」とは、もうひとりの他人である。a. Rimbuad と、入れたことがある。 寺山さんは、「偉大な質問になりたい」と、歌集『田園に死す』のあとがきに書いた。 つげ義春の原作を映画化した『蒸発旅日記』(2003)の打上げの時、美術の木村威夫は、 「山田さん、芸術は一切を否定したところから始まるんだ」と語ってくれ、 私は、その焼き鳥屋の箸袋の裏に、すぐさま走り書きした。 今まで、他者の多くの指針が「私」をかたちづくっている。 いつも、他者のなかに、「私」を見詰めている気がしてならない。 ★(続)

ヤマヴィカ映画史9

(写真:『青き零年』(1985)より) ★ 1984年、秋。 宮澤賢治の『ガドルフの百合』のガドルフが、 『注文の多い料理店』にまぎれこんだ話を、 紙芝居屋の「私」が映画の観客に見せる『悲しいガドルフ』(16ミリ)を撮影している年だった。湊谷さんに8ミリカメラを借りて、およそ一年間フィルムスケッチをしたことがある。 それまでの撮影方法は、演出を汲み取ったカメラマンがフレームを決め、 湊谷さんと「私」が、チェック、もしくは意図を確認して、 更にカメラマンが意見を参考に調整、修正して撮るのが常だった。 「私」の眼はカメラの眼なのか。 一体「私」自身は何をどのように見ているのか、見ようとしているものを確かめたくなったのだ。<ヤマヴィカフィルム>として初めて撮影・編集した映画が『青き零年』だった。 それからずっと、「普遍に対する個人の非合理の世界を強調した」プライベートフィルムを 今日まで廻している。 これが、「映画」と出会ってからの、「私」の46年ということか。 結局、稲垣足穂に同感した「白いスクリーンの精神」が今、 アルチュール・ランボオとの邂逅で、より確かさを得たように思っている。 ★(続)

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