ヤマヴィカ映画史3

(写真:映画『田園に死す』で自作の指差看板を持つ筆者) ★ 1974年3月。 寺山修司主宰の「天井桟敷」に入団した。 夏の公演『盲人書簡上海篇』を終えた時点で、すっかり懐の底がつき、 わずか半年で札幌に戻るも、寺山修司長篇第二作『田園に死す』に呼ばれ、意匠工作で参加した。 例えば、たくさんのかざぐるま、大きな黒子占いのテント絵、 田園に立つ福助足袋の看板、周りに般若心経を書いた犬の棺桶、 セーラー服の案山子、皆で作った川に流れる雛壇。 原田芳雄と八草薫が心中する御堂の内部に、 醤油や珈琲でモノクロ写真を古ぼけさせて貼ったりもした。 余談になるが、自分の仕事が一段落して、現場を覗いたら、 「山田、ちょっと」、と寺山さんに呼ばれ、 エキストラとして冒頭の墓から現れたり サーカス小屋で水をかけられたり、梯子にのぼされたり、 線路に自作の畳大の矢印の手を持って立たされたり、 オルガンを弾いたり、床屋の客になったりさせられた。 初めて映画の現場をまのあたりにすると、 見るだけでなく作る側への思いを馳せた。 なんと単純な、これが若さというものか。 ★(続)

ヤマヴィカ映画史2

(写真:リヨンのリュミエール広場にて 2016年6月) ★ 1972年9月。 閑散とした真昼の、札幌の繁華街(飲食街ススキノ)にある ディスコ「ゴーゴークラブマックス」で 寺山修司長篇第一回作品『書を捨てよ 町へ出よう』の映画上映会があって、 胸を震わせながら見た。 初めて、これが「映画」かも知れない、と実感した。 いきなり始まったと思うと、観客=「私」に向かって、 暗闇から現れた若者が青森弁で挑発的に語りかけてくる。 この映画には、詩と幻想とエロチズムが、そして既成の映画に対する質問が、 いっぱい詰まっていた。 中盤あたりだったか、レインコートを着たサッカー部の主将が、 イタリア映画音楽が聞こえる路地の暗闇のなかで語り出す。 「ーーーー映画が終わってしまうと白いスクリーンだけが残る。 白いスクリーン、白いスクリーン、白いスクリーン」 すると、画面が急に真っ白になり、チカチカ震えている。 愕然とした。 映画とは、白いスクリーンなのだと稲垣足穂が書いていたが、 映画のなかはいつも何かが写っているものだと思っていたのに、 からっぽの世界。 あッ、墓無い。 白いスクリーンのなかに「私」が、ぽつねんと、 ずっとこのまま置いてきぼりにされるような、 たまらなく悲しい気持ちになり途方に暮れた。 ★(続)

ヤマヴィカ映画史1

ランボオを辿ることは、今までの「私」自身を辿ることではないか、 そんな思いが駆け巡る。 (写真:『イリュミナション』映画制作メモ) ★ 2010年8月13日。今は無き、東京下北沢南口の古本屋『幻游社』の店頭ワゴンでみつけた、 埴谷雄高『濠渠と風車(ほりわりとふうしゃ)』のなかに『ランボオ素描』があった。 1970年。高校生だった私は、田舎町の小さな本屋でみつけた! 『地獄の季節』アルチュール・ランボオ ★ 今になって、ランボオの十七歳の錯乱する感受性に、六十五歳のこの「私」を重ねてみる。 その瞬間を感じとる触覚にも似た、野性的、あるいは霊感的ともとれる 感覚をふたたび発見する思い。安っぽい歳月の理性などどうでもいい。 今こそ「極端化と曖昧と神秘化」の方法が必要なのだと独り合点、納得する始末だが、 はたしてその先は、ただ虚無のなかを漂っているしかない。 そのときどきの原初の感性、本質的な「私」を感じとる<認識>を、改めて思わせてくれる。 今、つくづく、大切なことだと思っている。 いつもながら、解り得ないことを見詰めているだけか。 ★ (続)

    © 2015 ~2020 Yamavica scope